京都の伝統産業

 

西陣織西陣織

5世紀から6世紀頃大陸から帰化した秦氏が伝えた織物技術は、平安建都(794年)とともに官営の機織産業として繁栄します。西陣織の名称は、1467年から77年、応仁の乱後、戦乱を逃れていた織技術者たちが西陣本陣の跡付近で仕事を再開したことにちなんだものです。染めた糸を使って模様を織りだす西陣織は、伝統を生かしながら、常に新しい技術の開発を行ってきました。現在では、西陣で織れないものはないといわれるほど多様な織物を生み出しています。

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京友禅京友禅

白生地に、花鳥風月などの模様を染め上げる京友禅。その華やかさは京友禅の大きな特徴です。手描友禅と型友禅に大別されますが、手描友禅は、江戸時代中期(17世紀後半)に京都の宮崎友禅斉によって技法が大成され、友禅染の名前のもととなりました。型友禅は明治初期に京都の広瀬治助によって開発されたもので、模様を写し取った型紙を使って染める技法です。多くの工程を経てつくられる京友禅の華麗さは、わが国を代表する工芸品にふさわしいものです。

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京漆器京漆器

漆器(しっき)は英語で「ジャパン」といい、日本の工芸品の代表格といえます。堅牢でしかも美しく肌ざわりのよい漆は、生活用具や装飾品の塗料として理想的で、もともとは中国から伝えられました。平安時代(8末~12世紀)の宮廷の漆器生産にはじまる京漆器は、貴族好みの瀟洒(しょうしゃ)な仕上がりを伝統としています。室町時代(14~16世紀)には茶道の影響を受けた「東山時代物」といわれる名品が多くつくられました。塗りや加飾に様々な技法があり、真塗りや華麗な蒔絵(まきえ)などが京漆器の代表となっています。

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京指物京指物

指物(さしもの)とは、板と板、板と棒、棒と棒とを組み合わせ、指し合わせる木工芸です。京都の指物は平安時代(8末~12世紀)の宮廷文化に始まり、社寺(しゃじ)、茶道文化へと、洗練された世界を対象に発展しました。京指物は、調度指物と茶道指物の大きく2つに分かれます。気品のあるデザインと、挽く、曲げる、組む、彫るという精緻(せいち)な技法に優れており、良材の美しい木目を生かす木地仕上げが特色です。

京焼・清水焼京焼・清水焼

京焼・清水焼は、京都でつくられるやきものの総称です。高い意匠力と多彩な技術とが、「土もの」と呼ばれる陶器と「石もの」と呼ばれる磁器の両分野で、あらゆる種類のやきものをつくりだしてきました。雄略天皇の時代(5世紀後半)にはじまったとされる歴史は、17世紀中頃に野々村仁清が華麗な色絵陶器を完成させて一つの頂点を迎え、その後も尾形乾山、奥田頴川、青木木米といった多くの陶工が独自のデザイン・技法を生み出してきました。高度な技術力に基づいた華麗で雅やかなやきものです。

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京扇子京扇子

扇子は、日本で生まれ中国やヨーロッパにまで伝わった工芸品です。京都はその発祥の地だといわれています。平安時代初期(9世紀頃)からつくられはじめ、16世紀頃には現在のような技法が確立されました。茶道、香道、舞踊などの文化が花開いた京都だからこそ発達した工芸品だといえます。京扇子には非常に多くの種類があり、形状、素材など用途に応じた美のかたちが追求されています。木板を束ねた板扇と竹を骨にして紙や絹を貼った貼扇とに大別されます。

京うちわ京うちわ

日本のうちわは、そのかたちから中国系、朝鮮系、南方系の3つに大別できます。京うちわは、南北朝時代(14世紀)に伝わった朝鮮団扇の流れを汲み、細骨を1本ずつ放射状に並べて便面(うちわの面)を作り、後から柄をつけた「挿柄」の構造が特徴です。「御所うちわ」とも呼ばれ宮廷でも使われただけに、上質の嵯峨産の竹を使い、柄には漆に金彩といった優美な細工がほどこされています。便面の彩画も日本画のような完成度があり、美術工芸品としても称賛されています。

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金属工芸金属工芸

金属工芸は奈良時代(8世紀)に大陸から伝えられ、平安建都(794年)の際、京都にもたらされました。
溶かした金属を鋳型に流し込んで形をつくる鋳金、鎚などを使って打ちながら形づくる鍛金(たんきん)、金属板に模様を彫る彫金といった技術があります。仏像や梵鐘(ぼんしょう)など宗教用具から、生活用品、武具の飾りなど様々な用途に広がりました。

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京象嵌京象嵌

金属に金や銀、赤銅などをはめ込んで模様で装飾する象嵌(ぞうがん)は、シリアのダマスカスで生まれ、日本には飛鳥時代(6~7世紀)に伝わったとされています。平安時代(8末~12世紀)には技術の基盤ができ、江戸時代(17~19世紀)には京都の埋忠(うめただ)、正阿弥(しょうあみ)など刀やよろいなどをつくる職人が優れた象嵌を生みました。京都の象嵌は、鉄、銅、真鍮(しんちゅう)などの地金に縦横の細かい布目の溝を彫り、金、銀、銅などを鎚で打ち込んでいく布目象嵌を中心としており、繊細な美しさが特徴です。

京刃物(利器工具)京刃物(利器工具)

平安建都(794年)にともなって優秀な鍛冶師が奈良から移り住み、京刃物の歴史が始まりました。
伏見周辺の土、鳴滝(なるたき)の砥石、丹波の炭、山陰の砂鉄、さらに良質の水にも恵まれて、京都は全国を代表する刃物の産地となりました。様々な工芸、料理、華道などの文化が花開いた京都において、京刃物は主としてそうした専門的な用途に使われる道具として発展しました。現在も各分野のプロからの特殊な要求に応えられる、優れた鍛冶師の技術がこうした文化を支えています。

京版画京版画

版画の技法は奈良時代(8世紀)に中国から伝わり、摺仏(すりぶつ)、摺経(すりきょう)など仏教の広がりとともに発展しました。その後京都の版画は、出版文化と強く結びついていきます。特に江戸時代(17~19世紀)は仮名草子(かなぞうし)、浮世草子の挿絵に版画絵師が活躍し、江戸にも名をとどろかせました。井原西鶴の「絵本好色一代男」の挿絵は、京都の版画絵師、吉田半兵衛の作です。また扇面や団扇、さらに明治以降は日本画の木版本としても京版画の技術は高く評価されました。京都画派の木版本はその代表的なもので、海外にも紹介されています。

竹工芸竹工芸

竹製品の歴史は古く、縄文時代にさかのぼるといわれています。京都の竹工芸品は平安時代(8末~12世紀)にはじまったもので、茶道具や華道用具そして室内装飾品など幅広い用途に用いられています。いずれも茶の湯文化と深い関わりをもち、桃山時代以降、技術的に、また産業としても大きな発展を遂げました。京都の竹工芸品の特色は、恵まれた京都の気候風土に育まれた良質の竹材を用いて、竹そのものの持ち味を十分に生かす高い技術にあります。

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薫香薫香

香りによってその場の雰囲気をつくる香の文化は、1,300年ほど前に中国から伝わりました。貴族の間で流行し、室町時代(14~16世紀)には茶道に取り上げられて、やがて香道として完成されました。仏教、茶道の中心地であった京都では早くから薫香(くんこう)の生産が行われ、現在では寺院各本山で使われる焼香や線香、また宮廷文化から発展した匂い袋や練香など様々な製品がつくられています。日常生活に潤いをもたせる香りの文化は、海外からも注目されています。

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その他その他

額看板

社寺の拝殿の上、鳥居や門にかかる神額・仏額、茶室の額や木彫文字の老舗の看板など、額看板は日本の伝統的な文化・生活様式に根差したものです。製造工程は、荒木を寸法どりして看板木地を作り、毛筆の原稿を貼り、彫刻をします。それから彫刻された文字に色彩又は漆を塗って金箔を押します。企画・製造工程は概ね京都市内で行われており、ほとんどの工程が手作りであり歴史と伝統に培われた技が生きています。

京石工芸品

古代の古墳文化にはじまるともいわれる石造文化は、仏教伝来とともに大きく発展していきました。なかでも京都は、比叡山麓、白川の里から良質な花崗岩が産出し、また鋭い美意識を持った茶道文化の影響を受けたこともあって、非常に洗練された石工芸技術が育まれました。過去の名品は「本歌」と呼ばれ、伝統的な技法で現在もつくられています。

京瓦

6世紀末に大陸から日本に伝わった瓦は、寺院建築を中心に独自の発展を遂げました。京都には平安建都(794年)とともに伝わり、その後長い間、京都は瓦の一大産地として栄えました。第二次世界大戦以後は、特殊な手づくりの瓦を中心に生産しています。京瓦の種類は700種にものぼっており、寺院や神社、数寄屋から一般の町屋まで幅広く使われています。いずれも伝統の形ばかりで、屋根全体を覆う地瓦より、鬼瓦、軒瓦、ケラバ瓦などが中心となっています。丈夫で、いぶし銀のように美しい輝きを持つ手づくりならではの風合いが、京瓦の特色です。

造園

造園技術の基礎は、平安時代(8末~12世紀)に築かれました。豊かな水、良質の石や砂、庭木を育てるのに最適な気候と、京都には造園に理想的な条件が揃っていました。庭は寺院、貴族・武家から、応仁の乱(1467~77年)以降は町衆の間にも広がり、坪庭が生まれました。京都の造園は、自然の風景を写し取り、石、木、草、砂、苔などの要素すべてに意味が込められているのが特色で常に、伝統的な技術に新しい感覚を加え、人の心を引き付ける魅力的な庭をつくりだしています。

庭園用竹工芸

竹産地として恵まれた風土条件をもち、良質の竹材が産出する京都には、古くから多くの竹工芸品がつくられてきました。竹垣などの建築装飾用の竹製品もその一つです。竹そのものの持ち味を生かす京都の優れた技術は、枝穂垣や袖垣、四ツ目垣など、用途に応じた様々なデザインを生みだしました。竹のもつシンプルな感じが独特の風情として好まれ、庭園、茶室などになくてはならない存在となっています。

型紙

手描染めに対して、下絵を写し取り、小刀で彫り抜いた型紙を生地の上に置いて、抜いた部分に防染糊や色糊を置いて染める手法を、型染めといいます。この型染めに使われる型紙は、和紙を貼り合わせた丈夫な型地紙に細かな彫りを入れていくもので、手作業で0.2ミリという細さの線を抜くなど、非常に高度な技術が必要とされます。京都の型紙は「堀川紺形」の名が残っているように、古くから京都の染織と密接に関連して発達し、精緻な技術を今に伝えています。

京小紋

小さな文様を型染めする小紋染は、16世紀末にほぼ完成されたといわれています。上杉謙信、徳川家康が着用した小紋の帷子や胴服が現存していますが、武士の裃として多く使われ、のちに民間に広まりました。こうして渋い単色染めから出発した小紋ですが、京小紋は友禅染めの影響を受け、独自の発展を遂げます。絵画のような豊かな色彩をもったパターンが多く使われ、非常に華やかなデザインを特徴とするようになりました。

京鹿の子絞

京都の絞り染めの歴史は古く、10世紀頃に宮廷衣装として用いられた絞り染めが京鹿の子絞の原点で、立体感のある模様が小鹿の斑点に似ているためその名が付きました。現在では、京都でつくられる絹地の絞り染めを総称して京鹿の子絞と呼びます。複雑で精巧な柄構成が特徴で、疋田絞、一目絞など多様な技法に専門性の高い技術が伝承されています。

京無地染(浸染)

京都の浸染は紅染、黒染、茶染と分業されていましたが、このうちの茶染が今日の浸染のもとになるものです。茶の葉などを用いた草木染めからはじまって、茶染師が各種の植物染料の組み合わせ技法を開発し、各種の色による無地染を完成させていきました。明治後期には、英国から化学染料の技術が導入されて、自由に美しい色合いを表現するようになりました。浸染は堅牢で、浸染ならではの豊かな深みのある色合いが特色です。

京黒紋付染

黒紋付染は、17世紀初頭に確立されたといわれています。江戸時代(17~19世紀頃)、武士の間でびんろうじという植物染料による黒紋付が愛用されました。染料に含まれるタンニンが刀を通さないほど絹地を強くし、護身用として使われたのです。現代、紋付羽織袴や女性の喪服などが国民の礼服となり需要は高まりました。京都の黒紋付染は、明治以降ヨーロッパの染織技術や化学染料の導入によって磨かれ、藍下、紅下や「三度黒」などの技法が確立されました。深みのある黒色が特色です。

旗印染

旗印染とは、古代、卑弥呼の時代(3~4世紀)に起源をもつ旗や、応仁の乱(1467~77年)以前にすでに存在していたのぼりなどに、文字や紋章、マークなどを染めつける技術です。その他、風呂敷、ふくさ、印ばんてん、ゆかた、のれんなど、幅広い用途があります。古くから高い染色技術をもっていた「紺屋」が前身とされ、京都に根付いた染めの伝統が優れた技術力と文字や図案のデザイン力を発展させていきました。京都の旗印染は、歴史を感じさせる風格ある製品づくりに特色があります。

房・よりひも

縄文時代からものを縛ったり、つないだり、結わえたりという生活の必要性から生まれたひも。以来歴史とともに、身分や権威、荘厳さを表現するために、飾り房や結び方を工夫する文化が生まれ、房・よりひもに発展してきました。神具、仏具、武具、甲冑など様々な用途に使われ、結びにはいくつもの伝統の技法が伝えられています。神・祭・仏と日本の文化・芸能、茶道、能楽、歌舞伎、相撲など日常のくらしのなかに、華やかさや荘厳さ、そして潤いを演出する京都ならではの伝統工芸です。

京くみひも

京都でくみひもの生産がはじまったのは、平安建都(794年)の頃。武具の飾り、羽織のひも、帯締や神仏具など時代とともに様々な用途に使われ、発展していきました。京くみひもは丸台を使った丸ひもなど、基本的なものだけで約40種類、模様などバリエーションを含めると3千種を超えます。一つひとつに、歴史が育んだ京の美意識が表現されています。

手織関連用具

機づくりは室町時代(14~16世紀)から専門の職人の手によってつくられるようになり、手織大工と呼ばれた職人たちが活躍しました。その後、織機は時代とともに改良が加えられ、現代では、モーターで動く力織機が多く使われていますが、松材を使った手作りの手機は、手織りに欠かせない機として今も生産されています。杼、筬、箔へらなどを含めた関連用具の技術は、京都の織物、なかでも手織物を支え、ともに発展してきたのです。

京繍

もともと刺繍は、仏画を刺繍で表現した掛け物である繍仏から発展しました。平安建都(794年)の際、繍仏をはじめ貴族の装束や武具を飾る刺繍技術の技術者が組織され、京繍が生まれました。絹や麻の織物に美しい絹糸や豪華な金糸銀糸を使い、花鳥風月をモチーフとした図柄は写実的で、絵画のようです。表現方法も多彩で、現在使われているものだけでも30種類以上にのぼる繍の技法があります。

足袋

きものの装いに欠かせない足袋は、現在そのほとんどが機械による縫製となっています。しかし、和装産業がさかんな京都では、現在でも手づくりの足袋が伝統の技法でつくり続けられています。伸び縮みの少ない木綿の木地を使って、足にぴったりと沿う足袋に仕上げるには非常に高度な技術が必要とされます。手づくりの足袋の需要は減ってはいますが、機械縫製にはない、はき心地のよさ、丈夫さで、根強い人気を得ています。

京袋物

装粧品が一般に広く用いられるようになるのは、桃山時代(16世紀)以降のことです。紙入れ、たばこ入れ、風呂敷、手提げなどの京袋物は、江戸時代(17~19世紀)以降、京都のみやげものとして盛んに求められるようになりました。現在京袋物は、友禅染めなどの優れた生地によってつくられています。四季折々に新しい柄がデザインされ、気品のある形や色彩が特徴となっています。

かつら

古代の「草鬘」「花鬘」を用いて頭髪を装飾した風習から始まっており、頭の全部にはめ込むような形になったのは江戸初期(延寶年間)といわれています。かつら作りは一枚の金属板を役者の頭に合わせることから始まり、人の数だけ違う型ができます。植毛の大半は人毛が使われています。生え際の一本,二本の具合で全体の感じが変わり、神経の使いどころです。大きくは映像用と花街の舞台用に大別されますが、ほとんどの工程が手作業です。

花かんざし

女性の髪を飾る花かんざしは、その華やかさ、細やかな細工に特徴のある京都独特の工芸品です。現在は七五三用などを除いて一般的な需要は少なく、ほとんどが花街からの特別注文となっています。祇園など歴史のある花街を抱える京都の土地柄が今日まで育ててきた伝統技術です。絹の羽二重などを材料に、様々なタガネで花びらなどの形に打ち出し、和紙、平糸、針金などを使って美しく仕上げます。熟練の技術をもった職人が、手作業で丁寧につくりあげています。

黄楊櫛

京都の黄楊櫛の生産は、平安時代(8末~12世紀)からの長い伝統をもっています。黄楊の木は材質が柔らかく地肌を傷つけない、静電気を起こさないなど、櫛にとって理想的な性質をもっています。一般の櫛だけでなく、西陣織の綴織に使う櫛、京人形の結髪用の櫛など、京都ならではの幅広い用途に使われています。原木の乾燥に17年もの歳月をかけるなど、歴史に培われた手間ひまをかけた製法技術によって、手づくりの櫛が生まれます。

銘木・北山丸太

京都の銘木といえば、北山杉がすぐ思い浮かびます。この北山丸太の歴史は室町時代の中頃(15世紀頃)に始まり、茶の湯が流行するにつれて茶室などの建築様式である数寄屋造りに多く使われ、発展していきました。恵まれた自然と地形のうえに先人のたゆまない努力と英知によって、今日の育林・加工の技術が培われてきました。材質が緻密で、木肌が滑らかで光沢があり、変色や亀裂がないのが特色。特有の白い木肌は、伐採した後すぐに真夏の太陽に1週間ほどさらすという工程によって生まれます。

京銘竹

寒暖の差が激しい気候と肥えた土に恵まれた京都は、古くから有数の竹の産地です。19世紀後半に白熱電球を発明したエジソンは、フィラメントをつくるのに最上の材料として世界のなかから京都の竹を選びました。強さとしなやかさを併せもった材質は加工に適しており、平安時代(8末~12世紀)から、建築材料として使用されていました。庭園、茶室に使われる門、垣など、京都に育まれた日本の建築文化にとって、京銘竹は大変重要な役割を果たしてきたのです。

和傘

京都の傘づくりの歴史は、室町時代(14~16世紀)につくられた朱塗りの傘が始まりとされています。自由に開閉できる現在のような傘は、江戸時代(17~19世紀)からつくられるようになりました。高い技術力と優雅な仕上げ、そしてロクロ作りから仕上げの漆かけまでの一貫生産を大きな特徴としています。番傘、蛇の目傘のほか、現在はさしかけなどの神事、仏事、茶事、また店舗装飾用として珍重もされています。

提灯

提灯は、室町時代(14~16世紀)に夜道を照らす道具として用いられたのが始まりとされています。京都で盛んになったのは江戸時代になってから(17世紀頃)で、神仏の道具として生産・使用されました。現在は、装飾用としても用いられています。京提灯は、一定の長さに切った「平竹」を一周ずつ止めていく「一本掛け式」という独特の製法を特徴としています。が、「ひご竹」を螺旋状に巻いていく「巻骨式」という製法もあります。

張籠

張籠とは、いわゆる竹の編籠に和紙を張り、さらに漆を塗って仕上げたものです。和装産業が発展した京都では、反物・衣類などの保管や輸送のためにつくられ、工芸品として発展していきました。「つづら」という呼び方でもよく知られています。また竹の素朴な味わいを好んだ茶人たちによって、茶の湯道具としても利用されています。

きせる

第二次世界大戦以前、京都は東京と並ぶきせるの産地で、東京産の「住吉バリ」に対して「村田バリ」と呼ばれるブランド名で全国的に知られていました。最近は日常的な喫煙具としての需要は低下しましたが、かわって茶道具、骨董品として珍重されるようになりました。金・銀・真鍮の地金を鍛造して火皿と吸い口をつくり、シノベ竹の一種を加工してつくるラオ(銅の部分)をすげて完成させます。

伏見人形

東山連峰の稲荷山から南にかけては良質の陶土が産出し、この地で土人形が焼かれたのは垂仁天皇の時代といわれ、伏見人形はその流れをくむものです。全国で90種類以上もある土人形の中で、伏見人形の系統を引かないものは無いといわれるほど我が国の土人形の元祖であり、今なお民族的な美しさを誇っています。原型は2,000種類ほどあり、型を起こし、生地起こし、仕上げ、焼成、彩色の工程を経て完成します。今なお分業体制をとらず全工程を一人で行っています。

嵯峨面

嵯峨面は、嵯峨釈迦堂(清凉寺)で行われていた狂言の面を模して作られたのが始まりとされています。江戸時代末期、厄除け、魔除けとして嵯峨の社寺で販売され嵯峨嵐山の代表的な民芸品でした。しかし、昭和の初期に完全に途絶えたものを、昭和30年代に復興されたものです。昔ながらの「張り子」といわれる手法で、石膏型に糊づけした和紙を重ねて乾燥させます。下塗りをした面に、色絵具を何回も塗り重ね、独特の雰囲気をかもし出している手作りのお面です。

京すだれ

御簾は、平安時代(8末~12世紀)の宮廷の調度品として欠かせないものでした。京すだれは、この御簾の生産からはじまり、神社・仏閣・料亭など伝統や格式を重んじる場所の多い京都ならではの工芸品として受け継がれてきました。現在も手づくりの簾のほとんどが京都で生産されています。間仕切りや日除けとしての実用性と、趣のあるデザインが人気を集め、欧米などへも輸出されています。

京丸うちわ

桃山時代に深草の真竹を用いて作ったうちわ「元政型深草うちわ」が、源流とされています。江戸末期から明治初期になくなり、同時期に実用的なものとなったのが京丸うちわです。京の花街では、夏のご挨拶に、芸妓・舞妓さんがお得意先へ名入りのうちわを配る風習が残っており、受注生産です。地紙は和紙を用い、一本一本伝統的な技術・技法による手作業で作り上げています。

京陶人形

16世紀頃から伏見稲荷の門前で売られていた色をつけた素焼きの人形が伏見人形で、それが土人形の起源とされています。京陶人形は京都で作られている洗練された陶彫人形で、顔料などで極彩色に仕上げたものから、土味を生かした淡彩色のもの、本焼・焼しめで仕上げたものなどがあります。王朝の風俗を表した時代風俗人形、幼な子のしぐさをとらえた創作人形、節句人形や、干支、土鈴など多彩な人形が作られています。

京人形

災厄を身代わりしてくれるものとして、また愛玩用として日本人の生活に深いかかわりを持ってきた人形。京人形は、平安時代(8末~12世紀)、貴族の子供たちの遊び道具であった「ひいな人形」がその起源だといわれ、今日では、浮世人形、雛人形、五月人形、御所人形、市松人形など多くの種類が作られています。頭、髪付け、手足、小道具、着付(雛人形)などに製造工程が分業化されているのが特徴です。技術の高さと、細部まで丁寧に仕上げる伝統が高く評価されています。

京たたみ

畳の起源は遠く神代に始まるといわれていますが、奈良時代の古事記の一節がもっとも古い記述です。平安時代には絵巻物に現代の畳の形式に近いものが描かれており、鎌倉時代には藁で作った畳が現れました。茶道の発展に伴い、幾多の変遷を経て一般庶民にも広まりました。家庭用や茶室の「一般畳」と社寺仏閣で使用される「有職畳」の2種類に大別されます。京都では社寺仏閣用、茶室用の高度な技術を要する「京たたみ」「厚畳」「八重畳」等、古式にそった伝統ある畳技術が伝承され今日に至っています。

京表具・表装

表具は表装とも呼ばれ、経や書画を鑑賞に適するように裂地や紙を貼って裏打ちする技術として、仏教とともに中国から伝わりました。その後、掛軸、ふすま、額、屏風、巻物、画帖などへと表具・表装の世界は広がりを見せていきました。最近では洋風建築の室内装飾へも進出しているほか、文化財の修復といった分野でも、その高度な技術を発揮しています。古くから芸術や宗教の中心地であった京都が育んだ、独特の工芸ということができるでしょう。

和本

製本技術は書物とともに中国から伝わり、奈良時代(8世紀)には経典を巻物に仕立てる経師という職人が現れました。こうした巻物や折帖から、綴本(冊子)という使いやすい形に変化したのが、日本独自の和本です。経済・文化・宗教の中心地であった京都は、古くから製本技術の中心地でした。現在京都の和本は、寺社の宝物文書や古典の復刻、経文、日本の伝統的文化・芸術に関する書物など特殊な装丁をするものに多く使われ、高い評価を受けています。

色紙・短冊

平安時代(8末~12世紀)に染紙を使った歌集や詩書がつくられ、金銀の切箔を蒔いた華麗なものもありました。これが色紙や短冊の原型とされています。短冊は色紙の略式化されたもので、鎌倉時代(13世紀)に寸法などが決められたようです。いずれも、宮廷や寺院から一般へと普及しました。和紙を金泥や金銀箔を使って飾った色紙・短冊は古くから京都の特産品として発達し、各産地へと伝えられました。現在も昔ながらの技法が受け継がれています。

かるた

百人一首や花かるたなどのかるた類がつくられるようになったのは江戸時代(17~19世紀)からだといわれています。以来現在まで、かるたといえば、そのほとんどが京都で生産され、全国に出荷されています。練習用のものから、長い経験と熟練を必要とする手づくりのかるたまで、幅広い種類があります。

京唐紙

唐紙とは、もとは唐から伝わった細工紙のことでしたが、中国製の模様紙を貼った建具が使われはじめた平安時代(8末~12世紀)からは、その襖紙を指すようになりました。江戸時代(17~19世紀)には、岩絵具と糊を混ぜた絵具を使い、木版であでやかな色模様を摺り出す唐紙が急速に発展しました。バレンを使わず直接手のひらで摺ることによる、味わい深い仕上がりが特徴です。神社仏閣や茶室など数奇屋建築に多く使われる、京の都ならではの華麗な工芸品です。

京印章(印刻)

印章は、聖徳太子の時代(6世紀末) に中国から伝わりました。京都の印章は、平安時代(8末~12世紀)に天皇の印(御璽)などの製作からはじまり、江戸時代(17~19世紀)には一般に広がりました。日本最初の印判師は、江戸時代に京都・三条室町に住んでいたといわれています。当時の印判師は、苗字帯刀を許されていました。京都の印章は、印章最盛期の中国・漢の作風を受け継ぎ、高度な技術を持っています。

京こま

古代の独楽は宮廷の儀式として用いられていましたが、神祇性が薄れた独楽が貴族階級の遊具となりました。京こまは安土桃山時代に、上流階級の女性たちが着物の端切れを竹の棒を芯にして、巻き付け、独楽状にして室内で回した遊具に由来します。木を削り出した通常の独楽と異なり、竹の心棒に先染めの糸を帯状にした紐を巻きつけていきますが、西陣織や友禅の絹を細長く裁断して用いることもあります。日本全体で伝統的な正月遊びが薄れてきたなかで、実際に回して遊べる色鮮やかな京こまは飾りものとしても用いられています。

水引細工(結納飾り)

水引は京都で生まれました。平安時代(8末~12世紀)に髪の毛を結ぶこより「元結」が物を結ぶために使われるようになり、室町時代(14~16世紀)には右を紅、左を白に染め分ける進物用のくくり紐が生まれました。この様式は現在まで変わっていません。明治時代に一般に普及し、自然の風物を限られた材料で美しく表現する結納飾の細工として発展しました。贈答品のし、金封などに使われる平飾りと、結納用に使われる豪華な立体飾りがあります。

工芸菓子

奈良時代(8世紀)に遣唐使が伝えた唐菓子が、今の和菓子のもとになっています。平安時代(8末~12世紀)には朝廷の祭事に供える菓子の職人があらわれ、これが京菓子のはじまりです。御所に納める菓子は「有職菓子」として発展し、さらに茶道の流行で一般に広まります。現在の工芸菓子は、季節の風物が美しい形と色で表現された、京都らしい洗練された工芸品で、粉砂糖と寒梅粉(もち米から作った粉)を合わせたものに色素と水を加えてこねた生地で、花びらなどの形がつくられます。

菓子型

京都の四季折々の風情を写し出す京菓子づくりになくてはならないのが、押し菓子用の木型です。京都のみならず、全国で使われている菓子型のほとんどが、京都の職人の手によってつくられています。桜を素材とし、3年間ほど乾燥させた後で使います。古くから伝わる菓子の形に応じて、細かな部分まで丁寧に彫刻された菓子型。この押し菓子用の木型のほかに、打ちもの用の金型もあり、伝統的な技法を今に伝える菓子型職人の腕が、世界に誇る美しい京菓子の伝統を守り続けています。

日本酒

良質の地下水と酒づくりに適した気候風土に恵まれた京の酒の歴史は古く、平安時代(8末~12世紀)には、大内裏に「造酒司」が設けられ、高度な技術で酒づくりが行われました。やがて、その技は洛外の地域へも広まり、安土桃山時代(16世紀)に豊臣秀吉によって伏見城が築城されてからは、次第に伏見の酒造家が増え、今日の銘醸地としての基盤が整いました。明治以後は、東海道線の開通などによって全国に向けて販売されるようになり、日本の二大酒どころとして知られるようになりました。

茶筒

京都建仁寺の開祖栄西師が茶葉を中国から持ち帰って以降、それを保管する筒状の気密性の高い器が必要となりました。京都では明治の文明開化期に英国から輸入された錻力板を用い、円柱状の茶筒の製造が始まりました。他の茶筒の多くが機械による型抜きで作られていますが、開化堂の茶筒は全ての工程が手作業で130余りの工程を経て出来上がります。材料独特の光沢は、使い込んでいくにつれて特有の色と艶に変化していきます。また、ふたを茶筒の口に合わせると自ずと閉まる緻密さは手づくりならではのものです。

帆布製カバン

明治の末期、京都で帆布を使った丈夫なカバンが生まれました。大正時代になると自転車の普及に伴い、自転車のハンドルに掛ける道具袋の需要が生まれ、酒屋、牛乳屋、大工、植木職人などの職人用カバンが広まっていきました。以来、厚手の帆布を一枚ずつハサミで裁断し、職人がミシンで縫っています。金具の取り付けなど仕上げも全て手作業で、時代とともに色、柄、スタイルなど新しいカバンが生まれていますが、妥協を廃した丈夫で使い易いカバン作りの姿勢は今も変わっていません。

金網

台所用具として欠かせない金網は、現在ほとんど機械で生産されています。京都では現在でも手編みの金網がつくられ、釘を打ちつけた台を使って釘に合わせて針金を編んでいく技法が受け継がれています。何度でも針金をねじることができ、枠のなかで好みの網目を出せるのが手編みの持ち味です。湯豆腐掬い、各種の焼き網、茶こし、料理用うらごしなど、多品種少量生産。用途に合わせた使い勝手のよさと、張り替えができる点から、根強い需要があります。

京七宝

京七宝は、江戸時代初期(17世紀)に中国から学んだ技法をもとに復活した技術で、飾りの多い宝石箱やたんすなど、箱ものに多く用いられています。

截金

截金は、貼り合わせた金箔を細く切って仏像や仏画軸などに貼りつける技術です。奈良時代(8世紀)に中国から伝えられ、仏像、仏画、工芸品を飾る方法として広く利用されました。平安(8末~12世紀)~鎌倉時代(12~14世紀)に大きく発展し、それ以降は掛軸に表装された仏画(絵本尊)をつくる技法を中心に、京都の東西本願寺に所属する截金師の手によって技術が伝えられています。こうした仏教関係のほか、最近では木箱の装飾など新しい用途も広がっています。

数奇屋金具

日本建築のスタイルは時代とともに変化を遂げましたが、なかでも数奇屋造りは茶室などに使われる建築様式です。黒い色に仕上げられた数奇屋金具はこの数奇屋造りになくてはならないもので、茶人たちの優れた美的感覚によって京都に生まれた個性のある建築材料です。素材の鉄を切り、鍛造した後、蝋付けする製作方法は、伝統的な技術によって現在でも手作業で行われています。漆黒に仕上げるために、焼きを入れる最後の工程に工夫がなされています。

真田紐

真田紐とは、京指物の桐箱などにかけられた紐のことです。かつては刀の下げ緒や柄紐に使われていました。自然の草木で染めた糸を使って、織物を織る手法で美しい模様がつくりだされます。栗の皮で茶色、くちなしの実で黄色、紅花の花で赤、紫根で紫など、使われる草木は約70種類にものぼります。長い歴史を誇る最少の小巾織物で、くみひもとはまたちがった味わいのある京都ならではの工芸技術といえるでしょう。

念珠(珠数)

念珠は、仏教とともに日本に伝わったものです。当初は非常に貴重なものでしたが、仏教の広がりに合わせて、平安時代(8末~12世紀)から鎌倉時代(12~14世紀)にかけて次第に多く使われるようになりました。それでも、一般に広まるのは、ようやく江戸時代(17~19世紀)に売買が認められるようになってからのことです。仏教の本山が数多くある京都には、古くから念珠の製作技法が伝えられ、その伝統が今にいたるまで受け継がれています。

京仏壇

仏壇は、仏像を安置する「厨子」が変化したものです。長い間貴族や武士階級のためのものであった仏壇が江戸時代初期(17世紀)に行われた宗門改めを契機に広く一般にも普及しました。京都は3千数百の寺院と百以上の各宗派本山があり、平安朝から続く仏教の中心地です。そのため京仏壇は、漆塗、箔押などの精巧な技術と格調を特色としています。木工(指物・木彫)・金工(錺金具)・漆工(漆塗・箔押・蒔絵)など専門性の高い技術を駆使した総合工芸品といえます。

京仏具

京仏具は、8世紀頃、最澄、空海の時代から製作され、11世紀初頭に活躍した仏師定朝など優れた職人によって完成されていきました。寺院用、家庭用に大別され、宗派によっても異なる仏具には、仏像をはじめ宮殿、厨子、香炉、梵鐘、燭台など千数百という種類があります。仏具工芸は、諸本山を多数抱える京都の地で最高の品質を求められて発展し、全国へと伝わっていきました。

和ろうそく

日本のろうそくは和ろうそくと呼ばれ、京都を中心として発達しました。和ろうそくは、和紙に蘭草の髄を巻いて芯をつくり、ハゼの実から採ったロウを塗りこめていきます。いかり型と棒型がありますが、いずれも細長い形をしています。植物性の原料のみを使っているため、油煙が少なくきよらかな炎が特徴です。仏教など宗教的な行事に使われるほか、近年お茶事で夜話が復活したのに伴って、数寄屋ろうそくとしての需要も高まっています。

能面

能面は、室町時代(14~16世紀)にほぼ完成されたとされています。200種もの種類があり、神、男、女、狂、鬼などに大別されます。能面の製作は、主に檜を素材とし、木取、荒彫、小作りを経て目、歯を入れ、表裏両面の漆塗り、さらに彩色と進んでいきます。能面は、こうした各種工芸技術の結晶と言えます。

調べ

調べとは、能楽、歌舞伎、長唄、民謡祭りなどのお囃子に使われる小鼓、大鼓、太鼓の調べ緒のことで、調律の役目をします。調べの歴史は非常に古いものですが、専門の調べ司が生まれる明治10年(1877年)頃までは、「能楽師や三河萬歳」の楽師などがあり合せの丈夫な繊維で調律をしていました。調べ緒は日本麻などを材料にし、製作には染めなど25もの細かな工程があります。

邦楽器絃

雅楽器、古代、琵琶、箏、三味線など、邦楽器の絃をつくる技術は、京都から生まれました。現在でも絹糸を撚りと引き伸ばしのくり返しによって仕上げる伝統的な技法でつくられており、すべての工程が手作業で行われています。太い糸から順に一の糸、二の糸、三の糸があり、楽器の種類によってさらに細かく分かれます。楽器によって求められる音色が違いしかも一定していなければならないため、かなりの経験と熟練が要求される高度な技術です。

三味線

約400年前(永禄年間)に琉球から大阪の堺へ渡来した蛇皮線を改良したものだと伝えられています。三味線は「天神」「棹」「胴」からなり、木材はインド産の紅木などを用い、胴部の皮張りには細心の技術が要求され、皮が破れる寸前までピンと張って仕上げられます。企画・製造工程は概ね京都市内で行われ、流派や、太棹・中棹・細棹など注文者の要求にこたえる技術を保持しており、ほとんどの工程が手作業です。京の花街の舞台には欠かすことのできない和楽器です。

尺八

尺八は日本の伝統的な木管楽器の一種です。日本の雅楽楽器として中国の唐より伝来しましたが、その後、空白期を経て鎌倉から江戸時代に現在の形ができました。名称は、標準の管の長さが一尺八寸であることに由来しており、真竹の根元を用い、管の内側に残った節を削り落として漆と石膏と水を混ぜた地を塗り重ねることで管の内径を調整しています。京都では伝統的手工技術に、音響学的研究を重ね、一本一本が最高水準と謳われる尺八を作り出しています。

京弓

京都の弓づくりは室町時代(14~16世紀)に始まり、都を守る象徴としての飾り弓を中心に発展しました。明治以前には弓座をつくり、全国各藩の需要に応えていました。現在も宮中や伊勢神宮の御神宝がつくられていますが、生産の中心は弓道に使われる稽古弓へと変化しました。材料は真竹で、側木はハゼの木、それを鹿の皮を煮詰めたニベという接着剤で貼り合わせます。竹の処理は非常にていねいで、高級品になると12、3年もかけて行われます。また、漆塗り、蒔絵などで飾られた弓もあります。

弓矢は、武家や公家の鍛錬や儀式に使われる日常的な道具でした。江戸時代(17~19世紀)には、各藩がおかかえの弓矢師を雇ってそれぞれの製作技術を保護してきました。明治以降は需要が減少しますが、儀式や飾りに使う有職式矢は、京都を中心に作り続けられてきました。その種類は多く、鏑矢、神頭矢など十種類以上にものぼります。最近では中・高校生を中心に弓道人口が増加したことによって、稽古矢としての用途が広がっています。

神祇調度 装束 工芸

明治維新まで皇室のあった京都では、各種の式典や行事が多く、また神社の神事も盛んであるため、それらの道具や衣装をつくる専門工芸が古くから発達してきました。神祇調度とはいわゆる神具と呼ばれるもので、三宝や神殿などの木製の道具類のほか、鏡、御簾、几帳、旗、幕、雅楽器などがあります。神祇装束は、宮中の装束や神主の衣服、各種の伝統的な式典や行事などに用いられる衣装とその付属品をさします。いずれも多品種少量生産で、手づくりが大部分を占めます。

伝統建築

1000年の都であった京都では、宮殿、社寺、城郭、殿舎、山荘、住宅、茶室など、各種の建築が発達し、それぞれの技術も厳しい練磨を重ね、外来の技術も巧みに和様化された。今に継承された宮大工、町屋大工、数寄屋大工、板金や左官などの匠の伝統的技術は、日本を代表する文化遺産である。

京菓子

古来より社寺の多い京都では神饌菓子・仏饌菓子と呼ばれるお供え物が用いられていました。遣唐使が唐より持ち帰った「唐菓子」から、時代が下がり茶の湯の菓子として発展してゆきました。京の菓子は、生菓子、半生菓子、干菓子に大別されますが、その用途や成立ちによって、祭事や冠婚葬祭に用いられる儀典菓子、季節ごとに楽しまれる季節菓子、茶の湯に用いられる生菓子、干菓子、観光客や市民の手土産に使われる贈答用の菓子などに分類されます。技法などは手作りで人から人へと細やかな技術が受け継がれています。

京漬物

歴史は古く、今から八百年ほど前、「平家物語」で有名な建礼門院徳子が大原の里の寂光院に御閑居の折に、健礼門院を慰めようと、しそと漬け込んだ夏野菜の京漬物を里人が献上したといわれています。種類は多岐に亘りますが、原材料は可能な限り京都産を使用することとし、手作りによる独特の味を作り出し、手間と時間をかけて伝統的な製法にて製造されています。

京料理

源流は、御所、公家に伝わる「有職料理」、武家を中心とした「本膳料理」、寺院の斎食作法から生まれた「精進料理」、茶の湯とともに発達した「懐石料理」など多様な料理が体系的につながり、融合し、1,200年の王朝の土壌に培われ今日の京料理となっています。京料理は「季節を五感(見た目の美しさ、香り、美味しさ、肌合い、心)で味わう」料理と定義づけられています。